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結婚のいろいろな概念
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キリスト教的結婚
ある一部の人々は、結婚をキリスト教独特の制度だと考えているようである。彼らの考えでは、人間は放っておくと何かもっとはるかに自由な結合の形をとるであろうというのである。両性間の「自然な」関係はどんなものであるかということに関しては、多くの意見があるが、今日の最も一般的な考え方では西一夫一婦主義の結婚は、自然でない人工的なものであるとしている。ある人々は、男性は一夫多妻的であるという(一夫多妻が女性にも自然であると付け加える人は恐らく少ないであろうが)。
また他の人は、結婚前の純潔も結婚後の貞操もともに不必要であるというようなことを提唱する。生物学的・心理学的・社会学的な立場から結婚を攻撃する人もある。一夫一婦の結婚の方が他のいかなる形の結婚よりも真に自然的であると考える人は、ほとんどないか、あるいは皆無といってもいいくらいに思われる。それは、教会または国家によりて不本意にもそれにふさわしくないわれわれの本性の上に課せられたものである。
そして彼らは、改革者の任務はこの不当な時代遅れの権威の束縛から人類を救い出すことであると考える。「自然」という言葉はむずかしい曖昧な言葉で、避けた方がよかったかも知れない。しかし、それは普通の青年男女の考え方の中で非常に大きな役割を演じているので、これを避けることは、今日の問題の主要な点を外すことになったであろう。ここでは、十分な定義を与えることはできない。
しかし、この言葉の用法についていくつかの間を発することは可能である。「自然」とは、原始的なことを意味するのであろうか。ある人々はそのつもりであるらしい。しかし、彼らは、性的な関係以外の他の人間関係においては、原始的にもどることをはなはだ潔しとし.ないであろう。魔術や衛生法や民族組織や自然力の制御等において、原始復帰を鼓吹するはずはない。
、あるいは本能的の意味に使っている人もある。彼らは、結婚というものは1少なくともキリスト教的結婚というものは1普通の男女の本性と相反するものであるという。しかし彼らといえども、人間の争闘や食物にたいする本能的な態度を制御したり指導したりするのには、法律によることが賢明であり必要であることを否定しないであろう。人間や文明の歴史は、その発達史であると同時に、環境のみならず人間自身や人間の仲間にたいする関係の抑制の歴史である。結婚に関する真の論点は、それが原始的または本能的な意味において自然であるか否かということではなく、それが男女の性的本能の最も表現に価する部分を、種族の将来にとって最も価値あるような方法で表現すべき最良の器であるか否かということである。
結婚と家庭が広く一般に成立するようになったのは、僧侶や政治家の意図によるのでなく、無数の夫婦や父母が幸福な結婚をしたからである。結婚や家庭が尊重されたところには、安定した健全な社会が成長した。その秘訣を見出した者は、それを子供たちに伝えた。そしてその成功によって、それは次第に人間性の習慣となってきた。その中に強力な自然の力がないならば、これほど密接なしかもこれほど厳しい関係は、決して長く耐えられないであろう。いかなる法律も、いかなる制度も、いかなる意見も、それだけではかくも固い結合を作ることはできない。法律や制度や意見がなしうることは、せいぜい、それを発見する者にとってそれ自体最高の価値ある一種の生活を助けまた保護することのみである。
そこでキリスト教的結婚を形成するためには、キリスト教的であると否とを問わず、結婚そのものを理解することから始めるのが賢明である。結婚を理解するためには、愛の本質を理解しなければならない。これは今日容易なことではない。愛という言葉は、種々な意味に用いられる言葉の一つで、時には全然意味をなさない場合がある。ふとした一時的な魅力、情熱、散漫な興味、親しみとか関心を抱く気持、これらは皆その時々に応じて愛という名称を与えられているが、しかしいずれもそれに価しない。現代の小説や映画や新聞は、この言葉を全く乱用している。
それらからすれば、愛とは気ままで、移り気で、予測しえぬ不合理なものに思われる。それらが愛について確信しているらしいことは、それが決して永続せず、キューピヅドのように盲目で、ただ単に落ち着いていられないというだけの理由で、一つの対象から他の対象へと移ってゆくということである。なるほど、・情熱的な感情の要素がすべての真実な愛の中にはいるということ、情熱を持たない結婚は不満足で不完全だということは本当である。しかし情熱それだけでは愛ではない。
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